遠い山なみの光




遠い山なみの光

こういう本を読むと、自分がいかに小説が好きかということを再認識したりします。

カズオ・イシグロの作品は去年から読んでますが、ハズレがないし僕の趣向にあってます。

一人称の静かな語り口、過去の回想、記憶の混交…、『日の名残り』『わたしたちが孤児だったころ』『わたしを離さないで』どれにも当てはまります。

時間軸が一方向ではなく、物語の時間があっちこっち飛ぶのに話の筋がわかりやすいという構成なんかは、ガルシア・マルケスやバルガス・リョサの作品を彷彿とさせたりして、そっちのほうの影響もうけてるんじゃないかな、と思います(初期のころの作品は幻想的とも聞きます)。

(ここからネタバレです)

悦子の長崎時代の友人の佐知子の娘万里子は影を帯びた子供として回想されていますが、悦子の自殺した娘景子と印象が重なります。この二人が別人なのか同一人物なのかはっきりしないところが、この小説の不思議な読後感を形成していると思います。

物語の終わりまで悦子が日本人の夫と別れてイギリスに渡った原因や、長崎時代のお腹の子供がどうなったか語られてはいませんが、普通に考えれば真理子が景子と名前を変えているとは考えにくいし、年齢的にも合わないと思います。

ですが注意深く読んでないと、悦子がケーブルカーの回想をするところで万里子のことを景子と言っているので混乱してしまいます。一人称の小説はこういう罠が張ってあるところが面白いです。

その他好きなところは

・平易な文章で淡々と語られていくが、政治談議がでてきて小説に奥行きが出ていること。

他の作品でもこんな場面はあります。

・悦子の足に絡まった縄に万里子が怯えるというエピソードが悦子の記憶が曖昧なために、違う場面で2度繰り返されていることが、逆に象徴的な意味合いを持つエピソードになっていること。

やっぱ小説は静かで憂鬱でないと。



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